第1幕:『熱意という名のコンパイラ』
第1章:霧の中のプロトタイプ
古びたオフィスビルの一角、深夜だというのにモニターの光だけが明滅するこの場所で、ティファニー・カレン ――周囲からは親しみを込めて「ティファ」と呼ばれている―― は、自身の最新作のデバッグ作業に没頭していた。
最近、彼女の所属するインディーゲーム開発スタジオ『hc Software』には、ある「噂」が流れている。 それは、同じフロアの奥まったデスクに座る、開発歴二十年を超えるベテラン、サミュエル・エヴァンスに関するものだ。 彼はここ数ヶ月、誰も見たことがないような、奇妙で前衛的なゲームのプロトタイプを開発し続けている。
そのゲームは、ルールが不明瞭で、グラフィックもあえて粗いドット絵で統一されていた。 市場調査を重んじる昨今のトレンドからは、限りなく遠い存在だ。 同僚たちは陰で「サミュエルの道楽だ」「市場を理解していない」と囁き合っていた。 しかし、サミュエル本人はそんな雑音など聞こえていないかのように、ただ黙々とキーボードを叩いていた。
ティファはコーヒーを淹れに席を立ち、わざと彼のデスクの近くを通った。 モニターには、理解不能なコードの羅列と、不気味に揺らめく影のようなオブジェクトが映し出されている。
「サミュエル、またそのゲーム? もう三ヶ月になるでしょう。なぜそんなに……」
サミュエルは手を止めず、眼鏡の奥で静かに微笑んだだけだった。
「ティファ。これは、霧の中に隠された『何か』を見つけ出すためのものなんだよ。」
彼の言葉には、単なる技術的な執着を超えた、異様なまでの「確信」が宿っていた。 失敗が許されない厳しいビジネスの世界で、彼はなぜ、これほどまでに脆く、理解されにくいゲームに自分の命を削り込めるのか。
ティファは自分の席に戻り、自分のプロジェクトを見つめ直した。自分が作っているのは、あくまで「売れるためのゲーム」だ。 しかし、サミュエルの作るゲームには、論理を超えた、何者かを動かす熱量が渦巻いているように見えた。
翌朝、オフィスに出勤したティファは、信じられない光景を目の当たりにした。 サミュエルのデスクが綺麗に片付いており、彼のプロジェクトデータが全て消去されていたのだ。 そして、彼が最もこだわっていたはずの「あるファイル」だけが、なぜか社内の共有サーバーに、暗号化された状態で残されていた。
サミュエルの姿はどこにもない。彼は一体、何を「想像」し、何を「望んで」いたのか。 その謎が、ティファの中で深く、冷たい霧となって立ち込めた。
(2026/03/09)
